天理参考館
TENRI SANKOKAN MUSEUM

参考館セレクション

世界の考古美術孫家村画像石(そんかそんがぞうせき)

中国 後漢 1~3世紀
高さ115cm 幅94cm 石
伝山東省汶上県孫家村出土
資料番号:中1911(上部分)、084-1(下部分)

展示中 3-16

平板な石材に線刻や浮彫で様々な画像を表したものを画像石(がぞうせき)と呼んでいます。もっぱら建築物や墓室などの建材として用いられ、漢・三国時代を中心に隋唐時代にかけて長く作られました。本例も後漢時代(1~3世紀)のもので、画像石が好んで用いられた山東省の汶上県孫家村で出土したものと伝えられています。図像は、上から孔子見老子図、升鼎図(しょうていず)、奏楽図、庖厨図が描かれています。
画像石に描かれた図像の理解はなかなか難しく諸説ありますが、一説には升鼎図は秦の始皇帝にまつわる伝説、『泗水撈鼎(しすいろうてい)』の物語を描いたものといわれます(泗水は山東省を流れる河川の泗河の古名)。古代中国の地理書『水経注(すいけいちゅう)』には、始皇帝が泗水に沈んだ周鼎(しゅうてい)を引き上げようと数千人を動員したが得られなかったという話があり、鼎を綱で引き上げようとしたものの龍がこれを断ち切ったために失敗したのだと語られています。古代中国では鼎は王権の象徴で、泗水に沈んでいた周鼎は夏王朝より伝えられた九鼎の一つであったともいわれます。伝説によると、夏王朝の始祖・禹(う)は九州(天下)から集めた銅をもって九鼎を鋳造したといい、その九鼎は夏が滅んだ後は殷に、その後は周に受け継がれ、王朝の正当性を示す宝器であったとされます。有名な「鼎の軽重を問う」という故事成語は、楚の荘王が九鼎を持ち去ろうとその大小・軽重を問うた事、つまり天下の支配権を周から楚へ遷そうと試みた故事に由来しています。つまり泗水撈鼎の説話は、始皇帝が九鼎を手に入れて自らが天命によって天下を支配したことを示そうとしたが失敗したとする物語なのです。本例を見てみると、飛び出した龍により今まさに綱を噛み切られ、あと少しというところまで引き上げられていた鼎が再び水没する瞬間が描かれていることがわかります。