ブログ布留川のほとりから

夭折(ようせつ)の工人たち

2016年11月21日 (月)

将来を嘱望されながら若くしてこの世を去った工人がいます。我妻市助(あがつまいちすけ)、佐藤秀一(しゅういち)、佐藤友晴(ともはる)〔以上、遠刈田系〕、阿部金一(きんいち)〔土湯系〕がそうです。

市助は著名な蒐集家に見出され、意欲的な創作活動を期待された矢先、昭和16年海軍入隊。昭和19年戦死。
秀一は名工として当時から有名だった佐藤直助の二男で、父ゆずりの魅力的なこけしを作りました。少年時代から図画が得意で、新しい描彩を考案し、新しい時代のこけしを作り出そうというとき召集に応じて戦地に赴きます。昭和19年ビルマで戦死。
甘美な作風の直助と双璧を成した剛直な流儀の佐藤松之進の四男であった友晴は、剣道の試合で頭を強打されたことが原因で床に臥すようになります。休養期間中書物を多読する研究熱心な工人で、研究調査した手記を遺しました。集大成として『蔵王東麓の木地業とこけし』が死後出版されます。これは今日遠刈田木地師の歴史を知る貴重な文献となっています。しかし製作を再開することなく他界。製作期間は2年でした。
金一は、苦労の多かった阿部治助の自慢の一人息子でした。高等小学校卒業後よく父を支えましたが、昭和20年結核のため父より先に旅立ちます。戦時中の食糧事情の悪いころでした。治助の嘆きは深く、相次いで子ども3人全員に先立たれた哀しみからついには立ち直れなかったといいます。

享年、市助24歳、秀一31歳、友晴30歳、金一25歳。いずれも残されたこけしの数は少ないですが、今なお輝きを放っています。永遠に若き工人たちの気魄溢れる作品を、展示室でご覧ください。

【第78回企画展ブログ7】

日本民俗室 H 

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