ブログ布留川のほとりから

第224回トーク・サンコーカンの前説 その1

2013年09月10日 (火)

 9月28日(土) 第224回トーク・サンコーカンを行うにあたり、当日あまり詳しく紹介できない部分の説明をこの場でいたします。
 今回は「1万年ほど前の天理 ―布留遺跡縄文時代早期の調査報告―」と題して、1990(平成2)年から1992(平成4)年にかけて調査した布留遺跡豊井(打破り)地区の報告を行いますが、とりわけ縄文時代早期の遺構・遺物の報告を行う中で、当時の人々の営みを考えてみようというものです。ただ、この遺跡については長い年月をかけて遺物整理を行い、今年の3月にやっと報告書(非売品)を出版したものの、遺跡の性格を完全に把握するまでには、まだまだ検討の余地を残した遺跡でもあることがわかりました。
 まず、布留遺跡の概略について説明します。布留遺跡は奈良盆地の東辺に位置し、布留川によって形成された右岸の扇状地及び左岸の河岸段丘上に営まれた、縄文時代及び古墳時代に最も栄えた遺跡です。その範囲は布留川を挟んで2km四方に及び、行政区画で言えば天理市布留町・豊井町・豊田町・杣之内町・守目堂町・三島町に及びます。

 

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 今回報告する布留遺跡豊井(打破り)地区は、その布留川の扇状地上に営まれた、北岸から直線距離にして北方400mの所に位置する遺跡です。東側約700mの山頂部には豊田城跡があります。
 調査地からは4つの時期の遺構とそれに伴う遺物が出土しています。古い順(下の層から確認できた遺構ごと)に紹介すると、最下層で縄文時代早期前半の小土坑・集石遺構を、下層で縄文時代早期後半のサヌカイト貯蔵施設・集石遺構・土坑・自然流路を、中層で弥生時代末から古墳時代前期の竪穴住居・掘立柱建物・井戸・土坑・溝・自然流路を、上層で前述した豊田城跡と関連する中世の居館跡・環濠などがあります。その中の一番下の層(最下層)とその直上(下層)の層から確認した縄文時代早期の遺構と遺物についてが今回のトーク・サンコーカンでの内容です。この2つの堆積層には層と層の間(間層)に遺物の混じらない細かい砂(洪水層)が入り込み、その砂によって堆積層の年代を明瞭に分けていることが重要なポイントになっています。
 次に、その上の堆積層で確認した遺構について紹介します。中層で確認した弥生時代末から古墳時代前期の遺構は、出土した遺物の年代より庄内式期という時期にあたるものです。検出したものに竪穴住居6、掘立柱建物1、井戸1、土坑2、溝1、自然流路1、柱穴多数があり、古墳時代の幕開けの時期に多くの人々が布留遺跡やそのの周辺で暮らしていたことが分かりました。

 

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 さらに最上層で確認した中世の遺構には居館跡・環濠・礎石・素掘溝があります。居館は環濠が二重にめぐり、内濠と外濠からなります。内濠南辺部中央には橋脚遺構が、居館内には掘立柱建物5棟以上、池1、井戸1、多くの土坑や柱穴があります。
 この遺構は調査地の東側の山に築かれた豊田城(山城)と関連する建物と考えています。
 山城は戦いのない時期には生活が非常に不便な場所です。いざ戦いが起これば逃げ城としてその本領を発揮しますが、普段の生活は別の場所で行います。その生活の場所は一般に居館と呼ばれる建物で、環濠を伴うことが多いようです。布留遺跡豊井(打破り)地区で発見した中世の居館跡はまさしく、豊田城の人々が普段の生活を行う場に相応しい遺構だと考えています。天理市に限らず、15、6世紀の各地の山城の形態にはこのような山城と居館がセットで存在するという傾向が見られるようです。
 次回は布留遺跡の縄文土器について、簡単な紹介をします。

 

大和山内と調査中の布留遺跡豊井(打破り)地区(下中央・1990年)

大和山内と調査中の布留遺跡豊井(打破り)地区(下中央・1990年)

考古美術室 O 

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